【書評】島薗進先生「宗教の名著巡礼──正田倫顕『ゴッホの宇宙』」(5)
2026/08/12
宗教学の碩学・島薗進先生(東京大学名誉教授)による正田倫顕著『ゴッホの宇宙』(教文館)の書評が公にされました。
「宗教の名著巡礼」という連載で、「ゴッホ作品はなぜ見る者の心をつかみ揺さぶるのか(5)──正田倫顕『ゴッホの宇宙』教文館、2025年──」と題して、ご論考の第五回目を執筆されています。
島薗進先生は正田倫顕先生のゴッホ研究に触発され、昨年から書評を連続して発表なさっています。「『ゴッホと〈聖なるもの〉』(新教出版社、2017年)と『ゴッホの宇宙』(教文館、2025年)………これらの書物に親しむことで、私はゴッホ作品を見る目を更新させられた」と述べられています。そしてその思索は今や、トルストイの宗教へと展開していきます。異例の長期連載となっており、瞠目すべき論究です。是非お読み下さい!
→島薗進先生「宗教の名著巡礼」
島薗進先生「宗教の名著巡礼」
以下にその一部を引用させて頂きます。
「正田氏は『ゴッホと〈聖なるもの〉』において、次のようにも述べていた。
キリスト教とキリスト教でないものの対立、つまりキリスト教とイエスの対立はほぼ同時期ニーチェやドストエフスキー、トルストイによっても表明されている。また聖書学もキリスト教を相対化し、歴史上のイエスの実像を探究し始めている。こうした一九世紀後半の精神史的潮流の中にゴッホを位置づけることも可能である。(71ページ)
ここで、私がとくに注目したいのは、死を前にした時期のゴッホがトルストイに強い関心をもっており、それはトルストイの「宗教」論に惹かれてのことだったという事実である。すでにこの連載の(4)でも、「夜のカフェテラス」を描いていた頃、88年9月29日の弟テオへの手紙で、ゴッホは「ぼくはやはりどうしても「宗教」が必要なので、夜、戸外に出て星を描く」と書いていたことにふれた。その2週間余り前の手紙では、次のように「種まく人」の画家ミレーとドストエフスキーについて触れていた」。
正田倫顕『ゴッホと〈聖なるもの〉』、『ゴッホの宇宙』
「ロシアの作家、レフ・トルストイはゴッホより25歳年長で1828年の生まれだが、長編小説『戦争と平和』(1869年完成)、『アンナ・カレーニナ』(1877年完成)で世界的に著名となったが、その後、作品を書かずに自己吟味に沈潜する時期が続く。自己の生き方そのものを問い直し悔い改める一方、ロシア正教会を批判し、自らが納得できる「宗教」の探求を進めていく。長編小説、中編小説が書けない時期が続いたという点では、作家としてのスランプとも言えるが、それは教会のキリスト教ではない、日々を生きていく上で欠かせない、生き方の根源となるような信仰のあり方を探り、論述することに集中した時期でもあった(川端香男里『人類の知的遺産52 トルストイ』講談社、1982年、藤沼貴『トルストイの生涯』第三文明社、1993年)」。
「これらの著作で示された思想は「トルストイ主義」とよばれ、教団組織(この場合、ロシア正教会)が保持している形式化された伝統的宗教にはついていけなくなった知識人らに、それとは異なる「あるべき宗教」を提示するものとして受け止められ、世界的に大きな影響が広がった。インドの独立運動と非暴力抵抗運動を導いたガンジーも大きな影響を受けているが、日本の白樺派や明治末以降の教養知識人層にも大きな影響を与えた。
宮沢賢治もその一人だ。日本のベジタリアン運動にもトルストイの影響があったとされているが、1918年にベジタリアンとなった賢治にも影響があったかもしれない。1926年頃に書かれた「農民芸術の興隆」にもトルストイの名が記されている。自らの信仰を反映させた童話という表現形式を選んだことについても、トルストイの影響があった可能性を考えてもよいだろう」。
ゴッホ《糸杉のある道》
「星月夜と糸杉が描かれるのに先立つ時期と重なり合う時期(1888〜89年)にひまわりの絵をいくつも描いていた。暗い夜のなかの星を描いた作品と、光あふれるひまわりを描いた作品はだいぶ違うように見える。ゴーギャンを招いて新しい芸術家の共同体を作るという希望にあふれていた時期から、ゴーギャンが去り、自らの耳たぶを切り落とし、精神病院に入院する時期への移りゆきのなかで、心の対照的な側面が描かれているようにも見える。だが、正田氏は両者がつながりあっていると捉えている。
ゴッホは手紙(596/783、[島薗注]1889年6月25日のテオ宛手紙。『ファン・ゴッホ書簡全集 5』、1641ページ)で、糸杉とひまわりを同列に並べている。「ぼくはまだ糸杉に夢中になっているが、ひまわりのキャンバスのようなものを糸杉で作りたいと思っている」。単純に読めば、アルルで取り組んだ《ひまわり》のような代表作を糸杉を使って描きたいという希望の表明に見える。しかしひまわりと糸杉はモチーフとして見れば、やはり随分異質なものである。一見すると太陽との結びつきが強いひまわりが生を表わし、墓場の木である糸杉は死を指し示すように思えるからだ。確かに単純な概念化のもとでは、両者は対極にあるモチーフと捉えられるだろう。だがゴッホにとっては、表現の仕方に違いがあったものの、どちらもエネルギーに貫かれた同質のテーマだったのではないか。だから糸杉の絵も「ひまわりのキャンバスのようなもの」であったと思われる。表層的な次元では二項対立の関係にあっても、深層の次元ではつながっている主題であろう(『ゴッホの宇宙』156ページ)」。
ゴッホ《ひまわり》
「正田氏がゴッホのひまわり作品群について述べている以下の捉え方は、トルストイの『わが宗教』に大きな期待を寄せたゴッホの宗教観をよく伝えているもののように思える。
花々は背後から照らされながら、こちらを照らし出してもいる。光に貫かれるだけでなく、自ら発光体となっている。ここでは能動と受動、隆盛と衰退、生と死が一体である。実のところ、これらのひまわりはもはやわれわれが通常の感覚で認識する月並みな植物ではない。むしろ光の結晶化した存在になっている。ゴッホはひまわりを描きながら、ひまわりをこえたものまでを表してしまったのではないか。それは尋常ならざる光であり、過剰なまでの明るさであり、端的にいのちそのものである。根源的なエネルギーが前面に出てきて、ひまわりをひまわりたらしめているのだ。/このありさまはイエスの次の言葉にも通じている。「草花がどのように育つか、つぶさに見よ。労することをせず、紡ぐこともしない。しかし私はあなたたちに言う、栄華の極みのソロモンですら、これらの[草花の]一つほどにも装ってはいなかった。もし、今日野にあっても明日は炉に投げ込まれる草を[すら]、神はこのように装って下さるのであれば、ましてあなたたちを[装って下さるのは]なおさらのことであろう、信仰の薄い者たちよ」。実際、ひまわりは画面に満ちる光と一体となって、美しく装われている。作為的な努力をせず、目的意識にも縛られず、ただあるがままにある。大きな働きに促されて、花を咲かせ、種をつけている。いわば当たり前の姿で当たり前にあるにすぎないが、その姿が名状しがたいほどに神々しく、光輝にあふれているのである。(100ページ)
「宇宙全体の自己顕現」という小見出しが付された『ゴッホの宇宙』の最終章『《星月夜》の宇宙』で、正田氏はひまわりから糸杉と星月夜へと至る作品群のなかに、ある種の深い「慰め」が感じ取れるという。「万物は連続性と同質性を帯びた存在として、新たに捉え直された」とする(172ページ)。また、「精神病院の独房で最も救いのない状況にあったとき、不思議なことに救いの光が射しこんできたのではないか」(同前)とも述べている。このように作品が祈りや救いの表現になっているというように感じられるという受け止めには、一定の妥当性があると思う。そのことについて、正田氏の考察を手掛かりにもう1回考えていきたいと思う」。
是非、島薗先生のご論考の全文をお読み下さい! →島薗進先生「宗教の名著巡礼」
島薗 進先生
1948年生まれ。東京大学名誉教授。東京大学大学院人文社会系研究科教授、上智大学大学院実践宗教学研究科教授、同大学グリーフケア研究所所長を経て、現在、NPO法人東京自由大学学長。NHK「こころの時代」、「こころをよむ」など出演多数。
著書に『現代宗教の可能性』『スピリチュアリティの興隆』『日本仏教の社会倫理』『戦後日本と国家神道』(岩波書店)、『新宗教を問う』『宗教学の名著30』(筑摩書房)、『ポストモダンの新宗教』『精神世界のゆくえ』(法藏館)、『現代救済宗教論』(青弓社)、『明治大帝の誕生』(春秋社)、『宗教を物語でほどく アンデルセンから遠藤周作へ』『宗教のきほん なぜ「救い」を求めるのか』『死に向き合って生きる』(NHK出版)など多数。
島薗進先生