【書評】島薗進先生「宗教の名著巡礼──正田倫顕『ゴッホと〈聖なるもの〉』」(1)
2025/11/20
宗教学の大斗・島薗進先生(東京大学名誉教授)が正田倫顕著『ゴッホと〈聖なるもの〉』(新教出版社)の書評を執筆されました。「宗教の名著巡礼」という連載で、「ゴッホ作品はなぜ見る者の心をつかみ揺さぶるのか(1)──正田倫顕『ゴッホと〈聖なるもの〉』新教出版社、2017年──」と題して、ご論考の第一回目を公開されています!
→島薗進先生「宗教の名著巡礼」
島薗進先生「宗教の名著巡礼」
以下にその一部を引用させて頂きます。
「正田倫顕氏の『ゴッホと〈聖なるもの〉』(新教出版社、2017年)と『ゴッホの宇宙』(教文館、2025年)………これらの書物に親しむことで、私はゴッホ作品を見る目を更新させられたように感じた」。
「『ゴッホと〈聖なるもの〉』の章立てでは、第一章「キリスト教との関わり」、第二章「ゴッホのイエス」はキリスト教との関わりでのゴッホの内面理解に関わるものであり、書簡の記述が重要な役割を果たすことになる。そして、第三章「ゴッホの太陽」では、作品から多くを読み取っていく「宗教人間学的」なゴッホ理解が優勢になっていく。そして、8年後の『ゴッホの宇宙』では、その全体が後者の方向で展開していくが、それについては後ほど述べていくことにしたい」。
正田倫顕『ゴッホと〈聖なるもの〉』、『ゴッホの宇宙』
「「エッケホモ(この人を見よ)のように悲しい表情を見る」というのは、処刑前のイエス、無力な存在としてのイエスをシーンの姿に重ね合わせているということだ。正田氏は「この絵においては、救う者と救われる者は相即しているのではないか」(30ページ)と捉えている。教会にはないイエスの像、イエスの精神の働きのあり方を描いた作品としてこの《悲しみ》を捉える正田氏の視点は、現代的な宗教理解、現代的な「痛みとケアのスピリチュアリティ」という点から独自性のあるものと思う」。
「正田氏はこの時期のゴッホの心の深い痛みを以下のように叙述しているが、そこには多くの現代人がこうむっている苦悩に通じるものを感じ取ることもできるだろう」。
ゴッホ《悲しみ》
「正田氏は、この消えたろうそくは伝統的にはヴァニタス=はかなさのシンボルであり、死の象徴としても読めるという。牧師であった父の死、そして教会のキリスト教の弱体化が表現されているとするが、なるほどと思うところである」。
「聖書と現代小説を同じ平面に並べ置くというのは、伝統的なキリスト教会の担い手たちからすれば 冒涜とは言わないまでも身の程を知らぬ軽薄さの現れと見えたのではないか。だが、ゴッホは現代小説と聖書の間に連続性があるという視座をもっていた。正田氏はここでゴッホの手紙を引く」。
「正田氏はさらに、聖書とゾラの書物を描いた《開かれた聖書のある静物》には、「闇に光を投じる存在」というモチーフが現れているのではないかと論じている」。
ゴッホ《開かれた聖書のある静物》
「『ゴッホと〈聖なるもの〉』の第一章「キリスト教との関わり」の論点のうち、1882年の《悲しみ》と1885年の《開かれた聖書のある静物》に関わるものを紹介してきた。私が共鳴する論点に偏って紹介しているところがあるかもしれない。事実、私は以上の叙述から、ゴッホ作品を見る目を大いに開かれたと感じている。
次回は『ゴッホと〈聖なるもの〉』の第一章の他の論点にもふれつつ、第二章、第三章の論点についても述べていきたい」。
是非、島薗先生のご論考の全文をお読み下さい! →島薗進先生「宗教の名著巡礼」
島薗 進先生
1948年生まれ。東京大学名誉教授。東京大学大学院人文社会系研究科教授、上智大学大学院実践宗教学研究科教授、同大学グリーフケア研究所所長を経て、現在、NPO法人東京自由大学学長。NHK「こころの時代」、「こころをよむ」など出演多数。
著書に『現代宗教の可能性』『スピリチュアリティの興隆』『日本仏教の社会倫理』『戦後日本と国家神道』(岩波書店)、『新宗教を問う』『宗教学の名著30』(筑摩書房)、『ポストモダンの新宗教』『精神世界のゆくえ』(法藏館)、『現代救済宗教論』(青弓社)、『明治大帝の誕生』(春秋社)、『宗教を物語でほどく アンデルセンから遠藤周作へ』『宗教のきほん なぜ「救い」を求めるのか』『死に向き合って生きる』(NHK出版)など多数。
島薗進先生