【人文社会学類】学問紹介 ちっぽけな事柄を「問う」ということ〜「哲学」への入り口(箭内任先生)
2023/07/20
哲学-これは今から約2500年も昔、古代ギリシャに芽生えた人間の知的営みです。“Φιλοσοφία(philosophia)”と呼ばれるこの営みには「知恵を愛する」という意味が込められています。日本に紹介されたのは明治期になってからですが、このΦιλοσοφίαを「哲学」と翻訳したのは西周です。ある辞書によれば、「哲」の意味には「才知がすぐれていること。さとくかしこいこと。また、そのようなさまやその人」(『日本国語大辞典』小学館)とありますから、難産の結果生み出され世間に定着した「哲学」という言葉は最善の訳語だったかもしれません。
ところで、著名な哲学者であるカントが語った言葉に次のようなものがあります。
「人は哲学を学ぶことはできない。ただ、哲学する(philosophieren)ことを学びうるのみである。」
(カント『純粋理性批判』)
これはどのようなことでしょうか。
私が大学1年の時、「哲学演習」という授業で扱われた内容には、プラトンの『ソクラテスの弁明』やデカルトの『方法序説』という哲学書だけではなく、ミヒャエル・エンデの児童文学『モモ』や手塚治虫のコミック『ブッダ』、李恢成の小説を映画化した『伽耶子のために』(監督:小栗康平)というものもありました。それもまた「哲学の教材」だったのです。
児童文学であれコミックであれ、さらには映画であれ、そこには人が考えなければならない様々な事柄が描かれています。『モモ』では現代人のあり方や「時間」についての考え方が主人公の目を通して問題とされていました。『ブッダ』では生と死。『伽耶子のために』では民族の和解と共生の困難さが主題化されていたのです。このような作品を通して、私は「哲学する」ことの入り口に立ったということができます。
哲学で問題となるのは私たちの身の回りの事柄ばかりです。普段の生活の中にあるちっぽけな事柄であっても、そこにある「大切な何か」に気づき、目を向け、こだわろうとするときに「哲学する」ことは始まります。
ちっぽけな事柄を「問う」ということは、じつはあなたが思っていた以上にあなたの存在そのものを揺るがすかもしれません。しかし、それこそ「哲学する」ことそのものであることを、どうか、あなたのしかるべき時のために心にとどめておいて欲しいと思います。