尚絅学院大学

人文社会学類 お知らせ

會澤先生のアメリカ留学のススメ3(會澤まりえ先生)

2022/12/16

 會澤まりえ先生がアメリカへの留学について解説します。3回目は、會澤先生がアメリカの大学院で研究していた時の様子について解説してくれます。

アメリカの大学院

ノースウェスタン大学キャンパス(同大学Webより)

ノースウェスタン大学キャンパス(同大学Webより)

 アメリカの高校に留学した後にもう一度留学したいと考えていました。その機会が再び訪れたのは大学院留学でした。しかし、大学院の授業料は自己負担するには高すぎて奨学金なしに留学することは考えられませんでした。そこで、TOEFLの要件を満たした上で生活費と授業料全額を出してくれるというロータリー財団奨学金の試験を受験し、合格通知を手にやっとイリノイ州シカゴ郊外にあるノースウェスタン大学(Northwestern University)の大学院に留学することになりました。
 しかし、入学許可をもらうためには、更に2つの条件がありました。一つ目は、大学4年間で履修した全科目の平均点数が80点以上のA評価であることと、二つ目は、GRE(Graduate Record Examination)という「論文・英語・数学の試験」結果の提出が求められました。文系の学科を選んだつもりなのに、なぜ数学の試験が求められているのか当時は疑問に思いましたが、当時のアメリカの大学院のほとんどがGREを要件としていました。大学院では相関関係や統計的分析などが避けて通ることはできないからです。様々な条件を一つひとつ乗り越え、ようやく入学許可が降りた時は胸を撫で下ろしました。

大学院での勉強

ノースウェスタン大学図書館(同大学Webより)

ノースウェスタン大学図書館(同大学Webより)

 念願の大学院で筆者が選んだ専攻はスピーチ・コミュニケーションでした。この大学院は1年を4学期(春夏秋冬)に分けるクォーター制をとっていて、大学院の授業は1コマ3時間でした。夜の授業で午後7時〜10時の授業もありました。大学院の授業は難易度別に分けられており、3桁数字の100番代の科目は入門編で300番代の科目は難易度が高い科目というように分かり易い工夫が採られていました。担当教員の全ては専任の教員で非常勤講師は一人もいませんでした。前半は教授が講義し、後半は履修生全員でディスカッションをするという形式の授業が多かったため、授業で発言するためには予習の他に相当の準備が必要でした。
 したがって、毎日が勉強の日々で、あっという間に期末を迎えたくさんの課題論文を書いて提出するというパターンをそれぞれの学期毎に繰り返しました。しかも、パーソナル・コンピュータ(PC)がない時代、論文の全てはタイプライターで書きました。スペルチェック機能はタイプライターにはついていませんでしたので、正確なスペルを調べて書くようにしました。よって毎日の睡眠は3〜4時間で、週末は遅れを取り戻す勉強(キャッチアップスタディ)で一日12~15時間勉強するのが普通でした。大学の図書館は、夜の12時に閉館しますが、コアライブラリーという場所だけは午前2時まで開いていました。また、コンピューターセンターも同じく午前2時まで開いていました。筆者は美しいシカゴの夜景を背に、毎日のように夜遅くまで図書館で勉強しました。

アメリカで勉強することの面白さ

 大学院生(以下院生と表記)の年齢は様々で、中には既婚者や、ある製薬会社の幹部役員の方も院生の中に入り一緒に勉強していました。また、院生の寮は独身者用と既婚者用に分かれており、独身者用は二人部屋で6畳程度の寝室が2つ、浴室や台所は狭くルームメイトとの共有スペースとなっていましたが、既婚者用の部屋には寝室の他にかなり広いリビングルームが備え付けられてあり、このことからもアメリカの大学院は、幅広い年齢層を想定していることが分かりました。また、授業でのディスカッションにおいても異年齢・異世代の人々の意見や考え方を聴くことは、視野を広めることに繋がったと思います。
 留学中に面白いことを体験しました。コミュニケーションとは、お互いの共通点を築くラテン語の“communicare”(共通項という意味)が語源だと言われていますが、「米の文化」、「箸の文化」、「漢方薬」などすでにいくつかの共通項を持つアジア人同士が助け合うという場面が見られたのです。この大学院には台湾、韓国、中国、日本からの留学生が数名いましたが、普段は誰が良い課題論文を書くかというライバル関係にありました。しかし、筆者が風邪をこじらせて初めて授業を休んだ日に、中国人の院生が心配して漢方薬を持ってきてくれました。また、韓国人で元サラリーマンの院生は、ずっと年下の院生たちが落ち込んでいたりするといろいろな方法で励ましてくれて大人としての気遣いをしてくれました。つまりアメリカ社会の中で、同じアジア文化にルーツを持つマイノリティ同士が「留学生」という共遇からお互いに気遣うという関係性ができていたのです。それだけ大学院の授業はハードであったということがいえます。なぜならば、各学期の成績が平均B以上でないと、自動的に退学という条件が課されていたからです。
 奨学金の支給期間が1年のみと限られていたため、通常よりも倍の科目を履修した筆者は同期生よりも一足早く大学院を修了することになりました。シカゴという魅力的な大都会が目の前にありながら、シカゴ見学に行けたのは卒業してからのことでした。