尚絅学院大学

学校教育学類 お知らせ

【学校教育学類】 川端康成「伊豆の踊子」作品舞台を旅して─田村ゼミ研修旅行

2023/02/28

 田村ゼミでは、昨年暮、下記の日程で静岡県伊豆半島を縦断する研修旅行を実施しました。
 今、なぜ、伊豆か。2年次前期の科目「国文学講読Ⅱ」で「伊豆の踊子」を取上げ、作品読解から始まり、作品周辺をくまなく調べ、より深い作品解釈を試みました。結果、残すは、作品舞台に赴き、時空間を直接、肌で感じ取ることでした。
 川端が最初に伊豆旅行をしたのは、大正7年10月末から11月初めにかけてでした。ちょうど100年前で、奇しくも「スペイン風邪」が世界的大流行し始めた年です。研修旅行の時期が少しずれますが、コロナ禍での実施にやや奇遇めいたものを感じます。
 ゼミ生の率直な感想を紹介し、今回の研修旅行の成果と判断します。
 日程は、下記のとおりです。
 12月25日(日)  仙台・東京・三島・修善寺から伊豆市湯ヶ島温泉(修禅寺・湯川橋・井上靖旧居跡・
         湯ヶ島小学校跡・湯本館泊=川端滞在し「伊豆の踊子」執筆の宿)
   26日(月) 湯本館・浄蓮の滝・旧天城街道(トンネル)・伊豆下田(「私」と踊子との別れ)・
         湯ケ野温泉「福田家」泊(「私」が宿泊し、踊子一行と交流)
   27日(火) 湯ケ野温泉「福田家」・伊豆急河津・横浜・東京・仙台

【1日目】修善寺温泉・修禅寺・湯川橋
 「私はそれまでにこの踊子たちを二度見ているのだった。最初は私が湯ヶ島へ来る途中、修善寺へ行く彼女たちと湯川橋の近くで出会った。(以下略)私は振り返り眺めて、旅情が自分の身についたと思った。」 (川端康成『伊豆の踊子』)

 研修の一日目は、「私」と踊子たちが出会った湯川橋を見ました。私たちは踊子たちとは逆方向で修善寺から湯川橋へ移動しましたが、距離は想像していたよりも遠かったです。そのため、大袈裟に聞こえるかもしれませんが、「私」と踊子たちが茶屋で再会したのは必然だったのかもしれないと改めて感じました。なぜなら、私たちも修善寺などを歩きましたが、どのような人とすれ違ったなど気に留めることがなかった上に、同じ人と二度も出会ったという感覚もなかったからです。 
 小説には「私は一つの期待に胸をときめかして急いでいるのだった。」と書かれています。つまり、「私」は、すれ違った人物の顔を覚えるほど踊子に一目惚れに近い感情を抱いていたため、常に踊子と出会うことに胸をときめかし、注目していたのではないかと研修を通して実感し、考えることができました。 
 山本健吉は「旅情が自分の身についた」についてこのように述べています。 
 「この旅行が作者にとって、日常の自分からの脱出を企てたものである以上、その企ての成就 ─少くとも成就の曙光が見えてきたということである。それは氏の言葉で言えば、「孤児根性」から抜け出すことができるかもしれない、ある明るい喜びへの予感が、胸にきざしてきたということなのだ」(山本健吉「『伊豆の踊子』解説」)
 また、『湯ヶ島の思ひ出』でも「旅情が自分の身についた」という言葉が使われているらしいです。これらのことから、「私」は踊子と関わることによって孤独根性から抜け出すことができるのではないかと期待しながら旅をしていたのではないでしょうか。


【1日目】伊豆市湯ヶ島温泉
 今回のゼミの研修旅行では、さまざまなことを学ぶことができました。川端康成や井上靖などの文人たちになったつもりで旅行することを心がけました。
 私は、この研修旅行で、旧湯ヶ島小学校へ訪れたことが印象的でした。校庭には、井上靖の「地球上で一番清らかな広場」の詩碑が建てられており、詩碑の向こうには壮麗な富士山が見えました。その景色の美しさから、井上がなぜその校庭を「地球上で一番清らかな広場」と呼んだのか分かった気がしました。また、井上の「しろばんば」という作品名は雪虫を指していることを知りました。1日目に訪れた湯本館は、「伊豆の踊子」の執筆の宿であり、川端康成が「伊豆の踊子」を執筆した部屋を見させていただきました。その部屋はとても落ち着いていて、どこか寂し気に感じました。いったい川端はどんな気持ちで「伊豆の踊子」を書いたのか、作品の一文一文と結びつけながら考えることができました。玄関付近の階段は、照明が明るくスポットライトのようで、川端が、その階段の中途から踊り子たちが玄関で踊るのを見ていた様子が映し出された感じがしました。今回の研修旅行を通して、川端康成の「伊豆の踊子」や井上靖の「しろばんば」など、文学の持つ素晴らしさを知りました。是非、また訪れたいと思いました。


【2日目】浄蓮の滝・旧天城街道・旧天城トンネル
 川端康成の「伊豆の踊子」の舞台、天城峠を田村ゼミで歩いてきました。一高生の私が踊り子一行と出会った場所から天城トンネルを抜けて湯ケ野温泉の木賃宿へ向かうまでの踊り子達が通ったであろう道を歩いてきました。作品の中に「暗いトンネルに入ると、冷たい雫がぽたぽた落ちていた。南伊豆への出口が前方には小さく明るんでいた。」という文があります。私も実際にトンネルの入口から出口の方を見ましたが、小さく見えました。そのくらい長いトンネルでした。トンネルの中は、とても寒くて明かりはありましたが、とても暗かったです。行った時は、地面が舗装されていて歩きやすかったですが「伊豆の踊子」が書かれた当時は舗装がされていなくて歩きにくかったと思います。トンネルの中に明かりもないと思うので、とても寒くて暗くて歩きにくいところを踊り子達が歩いたと思うと、すごいと感じました。私だったら怖くて歩けなかったと思います。とても貴重な体験をしました。歩いていると、「伊豆の踊子」の風景がイメージ出来ました。

 「伊豆の踊り子」という作品の実際の舞台である伊豆を3日間旅行し、文学作品の実際の地に訪れた経験がこれまでなかった私にとって貴重な経験となった。
 3日間で色々なところを見て回ったが、その中でも特に印象に残っているのが天城峠だ。歩き始める前は天城トンネルを歩くことをただ楽しみにしていただけであったが、実際はそれまでの道のりもかなり大変であり、峠を降るまでに約1時間かかった。作品中に「暗いトンネルに入ると冷たい雫がぽたぽた落ちていた。南伊豆への出口が前方に小さく明るんでいた。」という一節があったが、まさにその通りであった。よく晴れた昼間にトンネルを通ったが、中は真っ暗でじめじめとしていた。実際に友人の頭に雫が落ちたこともあり、当時と変わらないとこともあるのだと感じた。だが、私達は舗装もされ、内部に電気のついている中、トンネルを歩いたため、当時の川端や踊り子はよほど大変な思いをしながらトンネルを歩いたのではないかと思った。


【2日目】静岡県河津町湯ケ野温泉
 昨年度に学習した「伊豆の踊子」の舞台である伊豆へ研修旅行として訪れました。実際に「私」が歩いた道を歩いたり、同じ宿に宿泊したりと、「伊豆の踊子」の物語の世界観に浸ることのできる研修旅行となりました。
 特に私が印象に残っている場所は2日目に宿泊した福田家という宿です。「伊豆の踊子」の中で、次のような場面があります。「太鼓の音が聞える度に胸がほうと明るんだ。〜どうとも出来ないのだと思った。二時を過ぎていた。」この部分の解釈は、「私は、太鼓の音が聞こえると胸が明るくなり、止むと沈みこむ。どうにもならない切ない気持ちで夜を更かすのである。」(福田家のパンフレット引用)とされています。実際に「私」が泊まったとされる部屋からは、物語に出てくる「共同湯」が見えたり、当時にもあった橋も見えたりしました。また、「伊豆の踊子」は何度も映画化されており、その度に大物俳優や女優の方々がこの福田家を利用されていることを知りました。そのため、福田屋には映画の時に実際に使われた台本が飾られてあったり、「伊豆の踊子」に関する様々な資料が置かれてあったりと、とても興味をそそられるものがたくさんありました。一方で、福田家の女将の方から、この景観が失われる可能性があるという話も聞くことが出来ました。その中で、「伊豆の踊子」の世界観を守るために、多くの取り組みをしたり工夫を施したりしている話も聞くことができて、本当に感動しました。
 偶然、宿帳に直筆の「太宰治」を確認することができました。太宰が伊豆旅行の際に宿泊していて、様子は「東京八景」冒頭に描かれています。
この研修旅行を通して、物語の世界に入り込んだような感覚を得られました。「伊豆の踊子」に限らずあらゆる作品の舞台を訪れることは、新たな刺激を受けることができるものだと考えます。


【2日目】静岡県下田市
 コロナ禍での旅行でしたが、感染対策を徹底して、無事に終えることができました。昨年学んだ「伊豆の踊子」の世界観を感じながらの3日間の旅でした。特に、下田の街が印象に残っています。「私」と踊子の別れた下田港には、多くの船が停泊しており、「私」たちもこの場所でこの地で別れたのだと感じられました。悲しくも美しい別れの場面を思い浮かべながら眺めていました。港のすぐ近くには、「栄吉が「私」に「敷島四箱と柿とカオールという口中清涼剤」を買ってきたという店跡もありました。「私」と「栄吉」が笑いながら別れの会話を交わす二人の様子が浮かんできました。
 「甲州屋」という、踊子一行が泊まった宿も見ることかできました。甲州屋以外にも、「私」が泊まった「前町長が主人だという宿屋」跡や「私」が一人で行った「活動小屋」跡も見てきました。小説の中に出てくるところを辿りながら歩くことで、より「伊豆の踊子」の世界を深く読み取り、理解することができたと思います。
 ゼミ生のみんな、旅先でお世話になったすべての方々、そして、この旅行を企画から引率までしてくださった田村先生、本当にありがとうございました。